「分析と探究」から問いが生まれるのではないかという仮説のもと、覚束ない段取りでスタートしたトークプログラム『BUNTAN(ブンタン)』その第一回目を振り返っていきたい。『WIRED』日本版編集長の松島倫明さんをゲストに迎え、「人間とは何か」というテーマで、主にテクノロジーの観点から縦横無尽に語り尽くす2時間半に及ぶ対談となった。その中にはいくつもの問いがあったし、また示唆的なワードや視点もたくさん出てきた。結果的にその記録は長大なものになったが、セッションを追体験するように通して読んでいただいても良いし、気になるワードを拾って読んでいただいても全く問題ない。それにしてもテーマがでかいと思われたかもしれない。SILはどうも大きなテーマやビジョンが好きみたいだ。はたして「人間(=自分自身)」を問い直すヒントを与えてくれるセッションとなったのは間違いない。シンギュラリティ/自然とは何か現在、AIを筆頭に急速に進化/変化するテクノロジー。加速し続ける成長のなかで、あるいはシンギュラリティはすでに訪れているのではないか、という話もある。一方で自然の中にあるジェネラティブな動きにも注目すると、このオーガニックな運動は、テクノロジーの進化と相似形であるという。テクノロジーの進化さえ自然の摂理の一部なのか!?松島:鎌倉の鶴岡八幡宮に源氏池っていう池があって、ある日蓮の葉がポッと1枚水面に出てくるんですね。翌日には2枚出てきて、その翌日には4枚出てきて、さらに翌日には8枚出てきて、というふうにどんどん増えていく。それで、例えば30日で源氏池が蓮の葉で埋めつくされるとしたら、池の半分が葉っぱで埋まってるのは何日目ぐらいだと思いますか。葉っぱは倍々で出てくるので、池が半分埋まってるのは当然ながら29日目なんです。そして翌日にはもう全部が埋まってるんですね。これってシンギュラリティの駆動原理とされる指数関数的成長そのものなんですよ。シンギュラリティというのは、2045年ぐらいにコンピューターの知能が全人類の知能を上回るといった話なんですけど、ある主体が自分の知性よりも高い知性を作れるようになったら、その瞬間に、その知性はさらに自分より高い知性を作れるようになるから、あとはどんどん超えていくだけ。指数関数的に一気に成長していくんです。シンギュラリティ的なものってデジタルであって、すごく人為的で機械的なものに思われるかもしれないんですけど、この動きは自然の中にもあって、蓮の葉っぱも同じなんですね。じゃあそれも含めた自然って何なのか、みたいなところをもう一回問い直さないといけない。で、蓮の葉って冬は枯れて池の水面しか見えなくなって、翌年の春にまたパッと出てくる。つまりリジェネラティブでもあるんですよね。指数関数的なジェネラティブな成長と、リジェネラティブな再生が両方とも自然にはある。そういうところから、リジェネラティブとは何かを考えてるんです。火の発明とデジタル革命『WIRED』が最初に創刊された1993年はインターネット黎明期、世界は不安定なままだったけど、デジタルテクノロジーという新たなツールを手にした人々は未来を楽観していた。当時20代前半だった松島さんは、その時代のユーフォリアをまさに肌で感じていたようだ。実際、デジタルテクノロジーによって世界は大きく変わってきたし、これからも変わり続けるだろう。松島:若い人には信じられないかもしれないけど、僕らにとってインターネットは20代になってから来たもので、これから社会の仕組みを全部変えていく、既存の古臭いものとかを完全にひっくり返すものであるとされ、そこにはすごいワクワク感がありました。93年、創刊時の『WIRED』に、デジタルというツールのインパクトは人類が火を手にした時に比肩するものだって書いてあるんですよ。火というツールは何十万年前ですよね。火で調理することですごく食べやすくなって、カロリーをどんどん取れるようになる。しかも消化効率もあがるから胃腸が短くなり、その分のカロリーを脳に与えることで、脳が大きくなってホモサピエンスが誕生したんです。それ以外にも、火があるからこそ暖を取れるようになって家族や社会の形が決まったり、農業のやり方が決まったり、戦争のやり方が決まったりというぐらい、火こそが今の文明の全てを規定したものだとすると、デジタルというのもそれと同じぐらいこれから大きく人類を変えていくだろうと。デジタルで脳をもう一度拡張してるっていう感覚は皆さんもあると思うんですけれども、それ以外のものも本当に劇的に変わっていくんだろうなと思います。AIの到来は人間性を否定するかものすごいスピードで進化/変化するテクノロジーを、人間として、社会としてどう受容していくのか。人間性はどう担保され、あるいは変容しながら、折り合いをつけていくのか。AIが急激にその性能を高めていくことに対する希望と不安について。林:この5年でものすごくテクノロジーって変わっていて、そんな中で今、この2022年とか2023年ってどんな風に捉えてますか?松島:『WIRED』が93年に創刊したって言いましたが、93年というのはインターネットが普及する前夜で、社会が大きく変わるかもっていう、ユーフォリアがあったわけです。それで今年はその時と同じぐらいすごいものがくる、エキサイティングな年になるという話を、ちょうどこの23年初めのチームのキックオフでしたんです。林:今回のAIの到来みたいなのは、質感としては同じなんですか?人間の拡張っていう言葉があったんだけど、拡張どころかもうどこか突き放されるような感覚もあるんじゃないかなって思ってるんですよ。松島:インターネットの時はあまりにもみんな無邪気すぎたしナイーブすぎた。デジタルテクノロジーを使えば世の中をひっくり返せるし、権力が集中していたものを分散化できると思っていた。今回AIが台頭してきたとき、すごくいいことにも、すごく悪いことにも使われるだろうなっていうぐらいにはこの30年でいろいろ学んできたと思います。例えば100年前の人々の姿を想像すると、今来ているテクノロジーってどういうことなんだろう、どういう意味を持っていて、どういうインパクトをもたらすのかというのを、もう1回考え直せると思うんです。よく例に出すのはラッダイト運動。イギリスで産業革命が起こった時に機械を壊すという。あれがどういう主張だったかというと、突き詰めれば、機織り機で布を作ることが自動化されるのは、人間性を否定することだから壊すんだと。今僕らがそれを聞いても「機織りでですか?」としか思わない。もしかしたら200年後の23世紀の人には、僕らが生成AIを見て、これは本当に人間性を否定されるかもって言っていることに対して「AIでそんな風に思ったの?」と思われる可能性もあるわけです。林:すごいスピードで動いてるテクノロジーをどう社会にフィットさせるか、どう効用をもたらすかみたいなところのデザインは誰かがやらなきゃいけないじゃないですか。テックの人たちっていうのは、それをいかに前に進めるかというところにすごくベクトルが働くので。その強い推進力で動いてるテックの進化みたいなものを、手綱を引っ張って違う領域とか、もしくは社会そのものに接続するみたいなことはこれから重要だなと思います。人間の証明とか意味とかデジタルとリアルの境目がぼやけてくる、人間とAIの境界もぼやけてくる。人間であることや「人間性」みたいなものに固執しないという選択肢はあるのか。さらにはアイデンティや主体性のようなものが幻想かもしれないとなったときに、それでも人間が生きる意味や幸せを確かに感じることができるのか。種としての存続はどうなるのか、みたいな話。どうなんでしょう?林:メタバース空間とかAIもそうですけど、だんだんとリアルとデジタルの区別がつかなくなってくるじゃないですか。オンラインチャットで喋ってる相手は本当に人間なのかな、みたいなところもわからなくなってくる。VR空間に没入したとして、こうやって喋ってる松島さんも、もしかしたら松島さんの大量の情報を食ったAIかもしれないわけです。ワールドコインとかでプルーフオブヒューマンみたいな、それが人間であることを証明する動きがあると思うんですけど、どれぐらい重要なのかなと。松島:AIと話してる方が心地いいし、人との煩わしい関係性とかない方がいいし、それでも生活できます、みたいなことは確実に起こってくると思います。もしかしたら若い世代が一気にそっちにながれる可能性もあるし、50を超えて孤独になった人とかがそっちに行っちゃう可能性もある。例えばうちの母とか80で一人暮らしなんですけど、息子としては、母がAIとマブダチになったらすごく安心なのになとも思うんです。でもその世代は行かないんですよね。林:そうなってくると、生物としての生殖行為はなくなるんじゃないか、セックスしなくなるとか、人間同士なんてめんどくさいから交流しなくなるとか、生物としての人間の存続みたいなところを危ぶむ声ってあるわけですね。未来社会において人間性を失わせるようなテクノロジーと、人間性を祝福するようなテクノロジーみたいなところに差はあったりするのかなっていうのはどう見えてますか?松島:人間以外のものがうわーっと溢れると思うんですよ。アバター的なものとか、こうやって集まったけど気がついたら人間俺だけだったみたいなこととか、普通にそういう場面が起こってくる。その時に人間がそれで心地いいと感じるのか、やっぱり人同士のわけのわからない通じないコミュニケーションて面白いよねって、そっちに価値づけがもう一度振れるのかは、社会としてどっちに価値を置くかみたいなのはどこかで決まってくるような気がします。人間のパーセプション人間はパーセプションを劇的に変えることで、様々なテクノロジーを受容して生きてきた。そしてどんなテクノロジーを受容するかは、社会のあり方にも大きく影響するだろう。利便性と危険性を天秤にかけ、倫理観を修正し、情報や印象が操作され、経済性と公共性を謳い、やがて恩恵が浸透するか、あるいは淘汰される。そしてまた新たなテクノロジーが……。松島:面白いのは人間の認知の方で。試験管ベイビーっていうのがあって、70年代後半に体外受精で初めて子どもが生まれた時に大論争になったんですよね。神に背く大それたこととして当時世界中で倫理や人間の存在が問われたのですが、そこから40年以上経った今、僕らの周りに体外受精で生まれた方々って何百万人といて、神に背いてるだなんて誰も思わないわけじゃないですか。わずか数十年でそれだけ人間の認識が変わり、社会としても何を受容するのかというのは変わる。神にも反するテクノロジーっていうところから、子どもが欲しかったけど持てなかった人が、持てるようになってすごく良かったよねっていう話に変わるわけです。テクノロジー自体はいい方向にも悪い方向にも使えるんですけれども、人間のパーセプションがどう変わっていくのかっていうのを見ていくのは、それによって社会の作り方が大きく変わってくるからすごく面白いなと。テクノロジーによる恩恵あるいは格差パーセプションという話とは別に、テクノロジーを取り入れて、積極的に使うかどうか、というのは、わたしたちの生活や仕事に大きく関わるところだ。受け入れ難いのか、なんとなくやめておくのか、わけがわからないのか、いずれにしてもその線引きと、結果としての格差がすでに生まれているみたいだ。林:歴史を振り返った時にテックの進化を意識的に拒否するみたいな人たちもいると思うんですよね。AIの力は借りないみたいな人たちもいると思うんですけども、意識的にテクノロジーを取り入れるかとか、身体的拡張するかしないかみたいなところの選択って、歴史的にはみんなしてきてはいるんだけど、最終的には飲み込まれていくという流れがあると思うんです。松島:テクノロジーを取捨選択することは、人の自由だし、願わくば選択する自由はあった方がいいと思います。ただ、あるテクノロジーを取捨選択することによって、ある種の権利みたいなものも手放さなきゃいけなくなってくると結構問題になってくるように思います。特定のプラットフォームに登録していないと公共サービスすらだんだん受けられなくなっていく、みたいなことがすでに起こってますね。林:過去数十年のとにかくテックがメインだった世界から、哲学とか宗教みたいなものがどれぐらいこの新しい時代で勃興してくるか、その兆しみたいなのはなんとなく感じてるところがあります。何を信じるかというところでいくと、例えばLLMなんか間違ったこと言うじゃないですか、それでもAIを信じきるみたいな世界はあると思うんですよね。松島:宗教は絶対出てくると思います。AIと融合してホモデウスっていう機械と人間の融合みたいになった人たちにとって、機械嫌ですって言ってラッダイトした人たちが全然違う種のように見えた時に、そこにもう大きな社会の格差が生まれているんじゃないか、みたいなことをユヴァル・ノア・ハラリは言ってるわけですが、技術の選択がそういう結果になるとすると、結構ダークな未来が見えてきます。林:今の時点でも格差めちゃくちゃありますよね。松島:格差を生むのもなくすのもテクノロジーだと思うんですよ。知識の平準化のようなことにテクノロジーって使えるし、都市と地方みたいなのも情報などはずいぶん平準化されて、もちろん良いことと悪いこと両方あると思うんですけれども。前の帝国主義の時は土地とか国を取り合ったわけなんですけど、テクノロジーの進歩を一気に享受できる人が、帝国主義的にばっと何かを取っちゃうようなことがあると結構きついですね。コミュニティ/オープンネス/所有歓迎すべきテクノロジーの進化と拡散、世界は滑らかにつながる一方で、そこで生まれる格差のもたらす未来への危惧もある。限られた資源に対するアクセスやその活用について、社会はもっと成熟する必要があるのではないか、冷静な視点で考えてみよう。林:デジタルノマドみたいな人たちが自由に行き来するっていうことは歓迎すべきことではあるんだけど、開いていくっていうことと、守っていくっていうことの共存をどうやって担保するのか。防御策みたいなものを我々はコミュニティの一員として持っているのか、その点はあまり議論されてない。カーボンニュートラルの文脈では、自然資本に対する価値の見直しが今起きていて、日本の放置されてる山を買いたいっていう人たちが増え始めている。それはある種の希望でもあるんだけど、一方リスクみたいなところもあると思うんです。松島:パンデミックが起こったんで、ノマドっていうところだけは一気に加速したじゃないですか。いいことだと思うんですけど、そこにどういう価値観を引っさげていけばいいのかっていうのは結構論点ですね。資本主義あるいは所有の考え方自体をどうアップデートできるのかっていうところに行き着いてくるとすると、今の私有財産制みたいなものがガチガチにある価値観のまま、みんなが自然の中に散らばって「俺ここ取る」「私はあっち取る」ってやると結構その後がきつい社会になりそうだなと。コモンズとして半分開かれてるような持ち方みたいなことに社会の方も成熟しながら進んでいくと、もう少しマシなんだけれど、結構スピード勝負で、どっちが早いかというのはある。AIの役割と死生観AIが社会の中でどういう存在として受け入れられ、役割を果たしていくのか。死生観の異なる文化的な背景によってもその可能性は異なってくる。いずれにしても人間ではない第三者として知性を発揮するAIは、これからの社会において重要な構成要素となるだろう。あるいは死者と生きる未来の展望。林:AIが台頭してきた時にリーダーシップがどう変わるのかはちょっと面白い論点かなと思います。松島:ある種の相談とか、人間関係の調整とか、例えば学校のいじめの相談とかAIの方が絶対にいいみたいに言われてますね。林:第三者的で非人間的な存在として社会の中に存在するっていうのはありそうですね。丸山眞男じゃないですけれども、日本社会の中空構造みたいなものがあるとして、真ん中にAIを置いてやるのは、結構日本人いけちゃうんじゃないな。なんだかわからない人間じゃないものが決めてるんだけどでも、それに従ってると全部うまくいくという。宗教観がいわゆる人間性とか我々の生活に影響を及ぼすみたいな所って結構多い気がして、『WIRED』の記事とかでもUSとジャパンでフィーチャーされる内容、例えばテクノロジーとかアントレプレナーとか、何か違いってあるんですか?西洋的なものと東洋的なものと。松島:一番大きいのはロボットですよね。日本だと友達やペットみたいなところがあるけど、向こうはある種敵対的に描いている。ターミネーターの世界とドラえもんの世界。死生観みたいなものが、関係してるかもしれないですね。例えばこれから5年くらいの間に、死んだ人にAIを使って喋らせるという技術がどんどん実用化してくると思うんですが、社会がそれをどういうふうに受容するのかというのも、文化的な違いが相当出てきそうですよ。林:松島さんの死生観はどうなんですか。松島:僕は父親を早くになくしているんで、AIで喋ってくれるなら父にしゃべらせたいと思うんですけれども。僕の親の世代になると全くデジタル情報が残ってないから、多分復元不可能です。スクリーンに死者が普通に出てきて話してくれる時代は、これから始まるわけなんですけど、それって人間社会の構成としてこれまでと全然違うものになるでしょうね。人間の再定義と多元的な未来、つまりマルチスピーシーズアバターから、死んだ人から、植物も動物も、細菌も細胞もAIもなんでも来いな、マルチスピーシーズな世界はありうるのか。人間と非人間の境界が曖昧になっていく世界で、人間自身を相対化し続けた末にある未来とは。シンギュラリティだけじゃない、プルラリティの話。ここは重要なパートです。林:死んだばあちゃんがスクリーンで出てくるのは、これも人間といえば人間なんだけど。人間たらしめるものみたいなものの定義がめちゃくちゃ曖昧になって、人間と非人間の区別も曖昧さがどんどん膨らんで、めちゃくちゃ多元的になるような可能性はあるんですよね。死者の民主主義みたいな話もあったりするし。例えば、動物や植物をセル単位でネットで繋げたら細胞レベルで民主主義に参加できるんじゃないかみたいな、そういう考え方もあるわけですよね。あらゆる細胞同士がつながるとか、かつて生きてた人間みたいなところが全部コネクトして、多元的に物事をジャッジしたり、未来に向けて何かアクションをするという世界は、テクノロジーの面白さとしてはあって。シンギュラリティとプルラリティみたいな話と、多元性を加速するテクノロジーみたいなものが、ある種の人間性のスクラップ&ビルドみたいなものをしてくれるような気もする。松島:『ノヴァセン』っていうジェームズ・ラヴロックの本を翻訳したんですけれども、彼はガイア仮説、つまり地球は一つの生命体のような有機的なものであるというのを60年代に書いていて、環境活動家とかにずっと支持されてたんです。そのラヴロックが100歳になって書いたのは、人間っていうのは過渡期の生物種であって、その後に機械的知性、つまりAIが出てきて地球を統べる。だから人間は進化の過程で猿からAIにバトンを渡すだけの存在でしかないんだけど、それで落胆する必要はなくて、例えば植物が地球上で一番繁栄してる生物であるように、人間も地球の中で普通に暮らしていく。ただし、今僕らが植物を見るような目でAIは僕らのことを見るだろうと。これまでラヴロックを支持してきた従来の環境活動家はこの『ノヴァセン』については全員沈黙、みたいな感じだったんですけれども(苦笑)AIみたいな知性が出てきた時に初めて僕らは、動物とか植物とか細胞民主主義みたいなものに意識がいっているわけですよね。これは偶然ではなくて多分相関なんですね。自分たちの存在すらも相対的に見るようなものが生まれつつあるからこそ、そういう世界認識を獲得してる。マルチスピーシーズ的な合意で言うと多分、動物も植物も微生物もいるんだけどAIもいるっていう世界なんだと思います。アバターみたいなものもそこにはいるし、そういうものを含めた複数種の社会をいかに作れるかというのが、ここからの問いなのかなと思います。シンギュラリティとプルラリティを対置するっていうよりはどちらもある、二項対立じゃなくて多分どっちも自然の摂理の中に最初から組み込まれている、そんな世界観です。拡張する人間と共同体マルチスピーシーズ的な世界観を獲得していく中で、現実世界に戻っていくと、我々人間はこれからの不確定要素の多い未来をどう生きていくのか。どこまでを仲間と認識し、社会を形成することができるのか。テクノロジーによって変容する人間と社会の未来像について。林:めちゃくちゃトラストフルなんですよローカルは。何か物事を起こす時には顔の見える関係の中でしか起こしてはいけないはずで、筋をちゃんと通して、裏で話をつけておいて、何かをやるっていう。一方で錦鯉NFTの場合は、NFTを買った瞬間から山古志デジタル村民ですって、どこの馬の骨かわからない人たちが名乗り始めるっていう現象が起きるめちゃくちゃトラストレスで、リアル村人からすると謎の集団なんです。いかにも相反する存在が共存することによって共同体としての拡張現象が起きるんじゃないかっていう仮説ではあったんですけど。それを今試行錯誤しながらやってて一定の拡張性みたいなものが生まれるなっていう感覚は持ってるわけです。ダンバー数っていう数字があるんですけども。チンパンジーとかボノボとか脳みその大脳皮質の面積を対比した時に、人間が仲間だと思える数の上限がだいたい150人ぐらいだったという数字を出してて、この150人という数字は拡張し得るのかどうか。松島:僕は完全に拡張しうる派なんですよ。科学的な裏付けがあるわけじゃないですけれども、感覚的には。これまで共同幻想としての仲間を歴史上、人間はどんどん増やしてきたわけです。橋とか道路によって遠くに行けるようになって隣村と繋がったり、グーテンベルグの印刷術でメディアが発達してナショナリズムが生まれたと言われますけれども、テクノロジーによって「仲間」と認識する集団の大きさってどんどんどんどん増えてきて。次は、宇宙人が登場するとやっと人間は「俺らは地球人でみんな仲間だった」ってなるはずなんですけど。常に内部と外部を作るっていう意味では結構拡張してきたし、人間の想像力ってすごい広がってきたと思ってます。林:僕なんかもうスマホの電源が落ちちゃったらどこにも行けない。なんて無様な、人間としての能力を失ってるんだっていうのもあるんだけど、テクノロジーがあってそういった能力が外在化した時に、一定の喪失が行われるんだけど、でもそれによって人間性みたいなものがどんどん変容してるんじゃないかっていう。人間が持ってた内なるものをリプレイスしていくっていうか、別の特性を持っていくみたいな、その可能性は十分にありそうだしジェンダーも生物種も人間も非人間も関係ない、めちゃくちゃフラットなマルチスピーシーズでの協調体制みたいなものができるかもしれない。それがすごい加速化しそうな気もします分かり合えない世界を分かりながらどうしたら人を評価しない、ジャッジしない、裁かない人間になれるのか。そんな質問が寄せられたことをきっかけに、分かり合えなさとどう向き合い、テクノロジーによっていかに新たな世界を獲得できるのか、についての期待感。松島:ジャッジをしないっていうのは難しいと思うんですけれども、メタ認知をちゃんとできるかどうかっていうのは結構重要かと思います。社会で生きていくためには一定の裁きというかルールに従って、押し付けるとか押し殺すとかっていうことが行われるんだけど、なんかそれをしなくてもいい世界が訪れつつあるのかなと。林:どれだけ対話しても通じないという人たちがいっぱいいるわけです。だけど分かり合えないことを分かるってことはできるような気がしていて、そうなった時に僕らが生きている世界みたいなものは無数にある。それは本当に多元的で、妄想でもなく、昔のmixiコミュニティみたいな趣味の集まりでもなく、実社会とか実の暮らしにおいて多元的なんだけど、一方で世界は連続してつながってるんだと認識できる未来が結構近いんじゃないかなっていう感じがしてるんですよ。かつて閉鎖系だった村をデジタル空間上にめちゃくちゃ薄めて広げることによって、新しい共同体ができる。一つの世界として山古志村の横にそれがあるわけです。そういう風に、人間のフィクションを信じる力ってすごく強いなと。それぞれがブロックチェーン上に刻まれているジェネラティブアートを持っているっていう事が、すごく誘発してるんですよ、新しい世界を作るっていうことを。だから分かり合えなくてもいいし、違って当然だし、分かり合えないっていうことを、ジャッジしてもいいんじゃないかなと。お互いを侵害しない上で、でも共存してるっていうような世界があるような気がします。そこら辺は僕は期待をしたいなと思ってるところです。未来をどう描く?22世紀の未来をどうやったら描けるだろうか?そこにどんな意味があるかはさておき、かつての万国博覧会的な未来像はもはや存在しない。大きな共同幻想が成り立たなくなり、テクノロジーも、倫理観も全てが変化していく中で、それぞれが勝手に未来を描くことに希望を見出す時がきた。松島:15年後の生活について、良くなってると思うか悪くなってると思うか、という質問を世界各国にしてる調査があるんです。新興国の人だと6-7割ぐらいの人が15年後良くなってるって言う一方で、1割の人しか良くなってると答えていない国があるんですけど、それが日本なんですよ。これの何で問題かっていうと。ニーチェっていう哲学者の言葉で、過去が現在に影響を与えるように、未来が現在に影響を与えるというものがあります。どういう未来を思い描いてるかっていうことが、その未来を決めるだけじゃなくて、今現在の僕らの生活とか価値観とか人生観とか人生そのものも規定してる。だとすると国民の7割が15年後良くなるよねって思ってる国で暮らしていることと、1割の人しか良くなると思ってない国で暮らしていることは、15年後がどうなるって話じゃなくて、今現在が相当違うんだろうなと。林:そのパーセンテージを上げるためにできることってなんでしょうか。松島:22世紀ってどういう未来ですかって言われたら、思い描けないか、21世紀の未来と同じものを思い描くかだと思います。要するに22世紀のイメージってないんですよね。これまで国とか大企業とか大きな主体が21世紀こうなるよって決めて、その大きな未来に向かってみんなで行くみたいなのがあったとすると、今の僕らにとっての未来ってみんなが勝手に思い描いていて、そのことをポジティブに捉えていくっていうのはあるんじゃないかなと思っています。メディアとしての役割でいうと、未来の選択肢みたいなものをたくさん提示したり掘り起こすこと。こういう未来もあるし、こういう未来もあるというのを、いくつも描くことかなと思ってます。テクノロジーと幸福、そして作り続けることテクノロジーの進化は何に動機付けられているのか。人間にとって必要なものなのか。技術が発展するかしないか自体がそもそもの人間の幸福にとって関係がないのでは。そんな質問が発せられた。テクノロジーと人間は、根源的に切っても切れない関係にあるみたいで、自然も含めて全てがつながっているこの世界を、生きる主体としてどう振る舞うのか。と言っても、そんなのわかるわけない!とにかく作り続けることを祝福するために。林:テクノロジーの進化が必ずしも人間の幸せに寄与してないっていうのは、やっぱりあると思うんですよね。例えば幸福度が高いと言われてたブータンが、近年ランキング1位から落ちたんですが、どれぐらい確かな話かわからないですけど、スマホが普及したからというのがあって。必ずしもプラスに働くわけじゃないっていうのは事実としてあると思います。じゃあなんでテクノロジーは進化していくのか。ひとつは作るという能力を持ってしまった人間の性だと僕は思っていて、その作ったものがどう働くかどうかっていうのは、判断できないですよね。ある人にとってみればそれはすごくいいツールかもしれないし、ある人にとってはマイナスに働くかもしれない。そこに対する評価っていうのは多様であるという前提があるから、我々が持っている対等に与えられた「作り続ける」っていうスタンスさえ失わなければ、進化は続いていく。自分がどう生きたいかとか、自分がどうしたいかっていうことをベースに、何でも作れるっていうのがおそらく人間の力だと僕は思ってるんです。AIを生み出すのも、国家という枠組みを生み出してるのも人間だし、スマホを作ってるのも人間だし、ちっちゃなものから大きなものまで何でも作ってきてるので、だったらみんなが対等に作るという力を持てば、理想とする自分の居心地のいいものは作れるはずなんで、そこを取り戻していくというか、自分の中で持ち続けていくっていうことができれば、いろんな形で幸せを担保するということに繋がるんじゃないかなと思っていて、とにかく作るしかないと思ってますね。松島:ひとつはテクノロジーも生命と同じように進化してるだけという考え方。人間や生物はその時々の周りの環境とのインタラクションの中で進化を遂げてきたわけですよね。それと同じようにテクノロジーというのも人間を含めた外部の環境とのインタラクションによって進化してるに過ぎない。正しいか正しくないかは全く関係なくて、純粋にその環境とのインタラクションの中で最適なものが次に生まれてくるだけのことなんです。もう一つはアフォーダンスによってできることをどんどん増やしていくっていうのが人間の生命としての根源にあって。様々なテクノロジーを持つことと、アフォーダンスによって人間はできることがどんどん増えていくわけですよね。できることを増やしていった先に、今AIまで行き着いちゃったってことかもしれない。それで今AIが最先端と思ってるけれども、アフォーダンスによってさらにまた次のことをやりはじめるでしょうね。全身の細胞は狂喜している。加速せよと命じている。加速せよ。加速せよ。 ー松本大洋 『ピンポン⑤』(小学館)よりわたしたちはこれから、凄まじい勢いで進化するテクノロジーとともに生き、そして変化を余儀なくされるだろう。しかも細胞レベルで意思決定し、AIや死んだ人まで登場する世界で。ついていけるかな、どうかなと不安になる。あまりに複雑で、あまりに速いから。できることなら考え過ぎず、軽やかに、しかし賢明に生きたい。そのために各々が作り続ける(試行錯誤し続ける?)という選択肢は、悪くないのではないか。ただ問題はどこに向かって、何を作るのか。原則と現実のギャップはずいぶんと大きい。まずは自分なりの問いと仮説を準備しよう。そして自分自身の細胞に問うてみるのだ。初回のBUNTANは、松島さんと林さんの活動および関心領域の重なるところが多く、滑らかな対話と議論が繰り広げられ、話題が尽きることがなかった。テクノロジーと人間と社会はどう折り合いをつけるのか、全ては自然の法則に従っているだけなのか。テクノロジーの進化が示す可能性と問題が「人間とは何か」を考えるための、様々な視点を与えてくれる。(おわり)